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煩悩の教えは、私たちは多くの欲望を抱えて生きているが、それが満たされることはない、欲望の原因と内容を知り、それから離れなければならないという教えです。
欲望のほとんどは満たされることはなく、いったん満たされても「もっと、もっと」とエスカレートするものです。いつまでも満たされない思いにとらわれて「思い通りにならない」状態が続く、これが私たちが苦しみに陥るしくみです。
お釈迦さまは、「たとえ樹を切っても、頑強な根を絶たなければ、再び成長するように、欲望の根源となる種を滅ぼさなければ、この苦しみは繰り返し現れる」と説かれました。
お釈迦さまは、人間が陥ってしまう煩わしい悩みのうち、克服すべき三つの根本的な煩悩として「貪」、「瞋」、「癡」の三つがあると説かれています。
「貪」 貪欲(とんよく) 貪り 必要以上に求める心
物欲に代表されますが、衣食住に関してより良いものを求めるというのは、皆さん共通だと思いますが、よりおいしいもの、よりきれいな服、より大きな家と際限なく考えているとそれにとらわれ、家計や生計がおかしくなります。
また、物欲だけでなく、人の優しさや尊敬を求め過ぎると人間関係を壊してしまいます。お隣さんとのトラブルや、夫婦関係、嫁姑関係なども最初は仲が良かったのに、段々相手に求め過ぎ、仲が悪くなるということがありますし、友人や同僚に対しても同じようなことが起こります。
人が、相手の言動を理解できず、理解しようとしないときに、自分の意思や尊厳を守るために、大声になったり、暴力になって相手を制圧しようという行動に出るのが怒りです。 怒りは、自分の主張を通す手段にすぎません。
これは、要するにただ大声で相手を威圧するため、それによって自分の主張を押し通すために怒りの感情を道具として使っていると考えます。 そして、社会や個人に対する憎しみなどの敵意に満ちた意地悪な思いは、つねに他人を非難する生き方として、つづいて不安と恐怖に満ちた環境として姿を現わしてしまいます。
最初は、自分の主張や尊厳を守るために怒り始めたとしても、自分の怒りが新たな怒りを生み出し、収集がつかなくなります。
「癡」 愚癡 無明(むみょう) 愚かで無知な心
悩みから離れれば、心静かな穏やかな心を得ることができるという事実について知らない状態(無明)。
人の悩みのほとんどを占める対人関係の悩みであるといっても過言ではありませんが、対人関係の中で、人を見下したり、人の悪口を言ったり、愚癡、自慢話をされる方の陥っている状態です。 この「愚癡」は、「貪欲」、「瞋恚」の原因ともなる、もっとも根源的な煩悩として位置づけられています。
悩みから離れれば、心静かな穏やかな世界があるという事実について無明(しらないからこそ)であるからこそ、「もっと欲しい」という貪りの気持ちや「思い通りにならず腹立たしい」といった怒りの感情が生じるとされています。
この三毒に「慢」「疑」「悪見」を加えたのが六大煩悩です。
「慢(まん)」 他人と比べて思い上がること
他人と比べて思い上がりますと、自慢話ばかりしたり、他人を嫉妬してしまうという結果になります。 自慢話というものは、「どうだ、すごいだろ」の一言で片付きますが、人にわざわざすごいだろと言わなければならないほど、相手の評価を気にしていることになります。
要するに自慢話は、劣等感の表れです。自分が劣っているという意識が強いからこそ自分を大きくみせるということになります。 「慢」の状態になると、虎の威を借る狐の生き方になったり、嫉妬心を強く持ってしまったり、劣等感を強くもったまま生きることにつながります。
目上の人にはこびへつらい、目下の人には高圧的に接するという結果にもなります。自分に対する評価を気にするあまり、対人関係の上下関係を気にしすぎるからです。
嫉妬心は、自分を過大評価し、周囲の評価が足りないと感じておられるときに、頭をよぎるものです。
自分のことを考えず人のことをいいなあと思っていることになりますので知らず知らずのうちに自分を卑下してしまう悩みを抱える結果となります。
「疑」 真理を疑うこと
人間不信、仏の知恵や他人の親切な心を疑うさまなどは、度を超した自我へのこだわり、執着が引き起こすものでもあります。恐怖や疑いに満ちた思いは、優柔不断で臆病な生き方として、失敗や困難に満ちた環境として姿を現します。
どうせ私はなどと言い努力しない感情をもってはいけません。
人を信じることができなくなるだけでなく、自分を信じることができなくなり、嘘で自分を固めた結果、本来の自分へ戻ることができなくなります。
「悪見」 誤ったものの見方
自分や人を誤解したり、人の悪口を言いたくなる感情です。
悪口というのは、「私は、あの人よりはましです」「わたしのことを知って下さい」「私は正しくよいひとです」と相手に伝えていることになります。
悪口を言っていれば、周囲の信頼を失うことになりますので、その結果、だれからも相手にされず孤独になり寂しいという悩みを抱える結果になります。
また、人を誤解し、信頼することができなければ、人からの思いやりも優しさも素直に受け取ることができず、孤独になります。
以上が代表的な6つの煩わしい悩みです。
煩悩があってこそ人間であり、だからこそ他人と関わることは必要不可欠となり人生が面白くなるのですが、度を超せば、悪意、羨望、怒り、不安、失望をもたらし、自分をコントロールすることができなくなります。
そして、執着する心や恨みの心だけでなく、わたしたちが、人との別れを嘆いたり、人を愛することもまた煩悩です。愛する心が強くなりすぎますと、別れを受け入れることができなかったり、自分の思い通りにしたいと考える心も強くなり、そのことにとらわれてしまいます。
ですから、煩悩を否定するのではなく、もともと人は、6つの根本煩悩から派生するたくさんの煩悩を抱えやすいということを心にとどめて、これを上手にコントロールし、度を超せば反省をして、他者に迷惑を掛けたなら素直に謝り、心を穏やかに、安らかな境地でいられるようにするのが人の生きるべき道だという教えです。
過保護な親、偏愛、家族や他者への無茶な怒り、人間不信、仏の知恵や他人の親切な心を疑うさまなどは、度を超した自我へのこだわり、執着が引き起こすものでもあります。自分だけでなく、目の前の他者も、同じように煩悩を抱えているということがわかれば、人付き合いの方法も穏やかなものへと自ずと変わっていきます。
無明であることによって煩悩が生じ、煩悩にとらわれてしまうことで苦しみに陥る。お釈迦さまは、この過程を「十二縁起」と呼ばれる、十二段階の縁起の法則で示されています。同時に真理を正しく知れば煩悩を滅することができ、苦しみもなくなるという、安らぎにいたる道筋も示されているのです。
6つの煩悩のほかにも、煩悩には、さまざまな分類のしかたがあり、除夜の鐘の数とおなじ百八の煩悩がよく知られています。
百八の煩悩の数え方には、九十八随眠(煩悩のこと)と十纏(じゅうてん:現に働いている煩悩)で百八。あるいは、私たちの感覚器の六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)に、苦・楽・捨の三受と、好・悪・平の三種を掛けてそれぞれ十八で、両者を合わせた三十六に、過去・現在・未来の三を掛けて百八。
さらには、インドでは「百八」は数が多いことを表現する数字とされていますので単にたくさんの煩悩という意味で百八とする数え方があります。