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1月1日 | 元旦 年 始 祭 | 8月16日 | 施 餓 鬼 |
2月3日 | 星まつり 節 分 会 | 9月22日 | 秋の彼岸会 |
3月20日 | 春の彼岸会 総供養 | 11月13日 | 御 会 式 |
5月8日 | 釈尊降誕会 写経会 | 12月31日 | 除 夜 祭 |
7月28日 | 丹波妙見祭 |
お正月は、元日から七日までを松の内、七日を七草の節句、十五日は小正月としてお祝いをしています。一般に正月は初詣をし、神社仏閣にお参りをして一年の無事と平安を祈ります。
日蓮大聖人は、「正月の一日は日のはじめ、月の始め、年のはじめ、春の始。これをもてなす人は、月の西より東をさして満つるが如く、日の東より西へわたりてあきらかなるが如く、徳もまさり人にも愛せられ候なり」と仰せられています。
お正月のはじめに法華経を供養する心がすべての事始めであり、古くは正月には先祖の魂を迎えて祭る行事で盆に対応するものであったようですが、盆が仏教の行事になり、正月は年神を迎え新年の豊作を祈るようになりました。
めでたく正月を迎えたならば、お仏壇に灯明をささげ、祝膳(ぞうに等)を供え、家族揃ってご本尊、ご先祖に対し、昨年の平穏無事を賜わった慈悲に感謝し、新しい年の年中安泰を祈り、法華経を読誦し、読経、唱題することが、新年最初の行事であります。
年頭にご本尊に感謝申しあげ家族が健康で新年を迎えたことを報告する祈りの功徳は誠に大なるものがあり、正月三が日の内にお寺へ参詣し、ご先祖の回向をすることが大切です。
法華経によって新しい年の幸福を万里の外よりあつめて新しい年を生きましょう。日蓮上人は次のように示されています。
「今正月のはじめに法華経を供養しまいらせんとおぼしめす御心は、木より花のさき、池より蓮のつぼみ、雪山にせんだんのひらけ、月の始めて出づるなるべし、今、日本国の法華経をかたきとして、わざわいを千里の外よりまねきよせぬ。此をもって思うに、今法華経を信ずる人は、さいわいを万里の外よりあつむべし、影は体より生ずるもの、法華経をかたきとする国は、体にかげのそうごとくわざわい来るべし、法華経を信ずる人は、せんだんに香ばしさのそなえたるが如し。」
平安朝の昔から行われてきた節分会(歳祭・星祭)の主な目的は、あらゆる災厄を除き払い、年中安泰にして福徳を願うことにあります。その為寒中にもかかわらず厳しい修行と敬虔な祈りが要求されます。
私たちの周囲には、災難・剣難・水難・風難・病難・車難・争難・死難等数多くの災厄をもたらす障魔が充満し、それを受けてしまわれる多くの人がおられます。
そこで諸経中の最勝経典である妙法蓮華経の「病即消滅、不老不死」「現世安穏、後生善処」「諸余怨敵、皆悉摧滅」(薬王品)の経力を以て「当年の大厄をば日蓮に任せ給え」の金言を奉じ除災招福を祈願する法要を節分会というのです。
特に男子の七歳・十三歳・二十五歳・四十二歳・六十一歳・七十歳・七十七歳・八十歳・八十八歳、女子の十三歳・十九歳・三十三歳・三十七歳・四十九歳・六十一歳・七十歳・七十七歳・八十歳・八十八歳は厄歳でありその前後をも注意を要するとされています。
日蓮上人もこの厄年のことを、「厄年の人の危き事は、少水に住む魚を、トビ・カラスなんどが伺い、灯のほとりに住める夏の蟲の火中に入らんとするが如し、あやうし。鬼神やゝもすれば此の人のたましいを伺いなやまさんとす」と述べられ、その理由として「神外と申して諸神他国へ遊行すれば慎んで除災得楽を祈り給うべし」と仰せになっております。
節分会には、氏名年齢干支を書き年中安泰の歳祭りを申込み、法華経の経力により除災招福を得、災厄から免れるようにするのが、法華経信徒です。
いうまでもなく、自分自身も声を大にしてお題目を唱え、三障四魔を払うことが大切であります。交通安全のお守りも車につけ、法華経の経力で除災しましょう。
彼岸とは、梵語(ぼんご)の[波羅蜜の訳で、くわしくは到彼です。生死にさまよう苦悩の多い此の岸(娑婆世界)から、煩悩の中流を渡って、永遠の平安のある彼の岸(常寂光世界)に到るという意味です。
わが国で彼岸が行われるようになったのは平安時代の初期のことで、日蓮上人ご在世の鎌倉時代には、「現世安穏・後生善処」の祈願法として武士の社会に広まり、この頃より、彼岸の中日を期して、死者の冥福を祈り、自分の得道と成仏を祈願する風習が広まっていったようです。さらに江戸時代になると彼岸の行事は民衆の生活の中に入り、寺では施餓鬼法要が行われ、先祖供養の行事として、さまざまな習俗を生むようになりました。
彼岸の季節は、昼夜の時間が平均し、気候も暑からず寒からず中道の気候であり、それはちょうど仏さまの中道思想に通じています。そこでその中日を中心に七日間仏道修行の基本である六波羅蜜を実行し、後生菩提を求めるいわば仏教強調週間であります。
ここで波羅蜜とは、迷いの世界(生死の此岸)より悟りの世界(涅槃の世界)に至ったという意味で、自他ともに涅槃に至らしめる菩薩の優れた行いをいいます。そして六波羅蜜とは、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六つを指しています。六波羅蜜の修行の根本はすべての物に感謝する報恩感謝の修行といえます。
お彼岸には自分が今日あることを感謝する意味において、ご先祖の回向やお墓供養するのも大切な彼岸中の仏道修行であります。 今日では先祖供養の日として、春秋彼岸の中日は、国民の祝日となっているのです。
日蓮上人は持妙法華問答抄に
一切衆生皆成仏道の教なれば上根上機は観念観法も然るべし、下根下機は唯信心肝要也、されば経には浄心に信教して疑惑を生ぜざらん者は、地獄餓鬼畜生に堕ずして十方の仏前に生ぜんと説き給えり、いかにも信心して次の生の仏前を期すべき也 |
と示されています。
私たちは唯お題目を一心に信じれば、それは六波羅蜜の修行をすべて越える修行となり、後生善処の大願をも成就することになるのです。
妙法寺では、春の彼岸の中日に総供養をつとめ私たちの先祖さますべての供養をすると同時に戦争・災害・事故などで生命をうばわれた人々の霊に対し、安らかな冥福をお祈りしています。少子化や未婚、あるいは子に先だたれて家をついでくれるもののない人も多くなりました。総供養に参詣して心からお題目をお唱え下さい。
釈尊降誕会は、お釈迦様の降誕をお祝いするお祭りで花祭りとして親しまれています。
釈尊がお生まれになったのは、ネパールのルンビニー苑であり美しいところと仏典には書かれています。母のマーヤー妃は実家に帰り、デーヴァダハ城の近くのルンビニー苑で4月8日に出産され、ゴータマ・シッタルタがお生まれになりました。それは紀元前463年のことです。
釈尊が誕生されますと、神々は天上から花の雨を降らせ、2頭のナーガ(竜)が産湯を注いだということです。生まれたばかりの釈尊は、東南西北を見わたし、北に向って7歩あゆみ、右手を上に左手を下に向け、「天上天下唯我独尊」と宣言されます。
こんなことは信じがたいことですが闇黒の世界に智慧の光を与えて下さる釈尊の出現なのですからどんな表現でも表せないことではないでしょうか。
さらにに雪山に阿私陀という仙人が住んでいましたが、太子の誕生を知り甥の那羅陀をつれて太子を占いにやってきました。そして「王子様は32の偉人の相を具えておいでで、家にあれば転輪聖王となって四天下を統一されるし、出家すれば必ず無上の正覚を成就し明行具足の仏陀となられるでしょう」と予言されたと伝えられています。
花祭りでは、お釈迦さまの誕生された日を記念し、花で飾られた御堂に誕生仏がまつられ、甘茶をそそぎます。お釈迦さまは、七歩あるいて「天にも地にもわれ一人、わたしはこの世を救うのだ」と天と地を指さされました。私たちも自分に誇りをもち、命を尊びあい、この世の苦しみを救う祈願をささげましょう。
妙見菩薩は、北斗七星または北極星を神格化した神さまです。国土を守り、災を消し敵を退け人の幸せと寿命を増す菩薩で、星の中でも最もすぐれ「神仙中の仙であり菩薩の大将なり」とされています。
道教に「鎮宅霊符」というお札があり、これをまつると家が鎮まり繁栄するという信仰があります。この霊符に七十二体の神像が描かれており、その中央に「尊星王」がひときわ大きくかかれていますが、これが妙見です。
妙見信仰は、この「鎮宅霊符神」の信仰と混じりながら、星の信仰から海上安全の神、貿易を営む大商人の信仰する商業の神、さらに「妙見」という名から眼病の神、さらには学問成就の神として民間に広く尊信されていきました。
日蓮上人は「北斗七星・二十八宿・無量の諸星・・・・あらゆる一切衆生のもっている所の仏性を妙法蓮華経と名づける・・・・」といわれ信仰されました。
中世には、豪族や武家の間で守護神、軍神として多く信仰され、日蓮上人に帰依された千葉氏も妙見菩薩を守護神としています。
有名な「能勢の妙見さん」は日蓮宗真如寺の妙見堂のことです。能勢の領主であった能勢家は代々法華信仰と深い縁がありました。能勢頼次は本能寺の変で明智光秀に加担したため、豊臣秀吉に領地を奪われ岡山の妙勝寺に隠れていましたが、のち家康に仕え関ケ原の役で功をたてたため旧領をもとにもどしました。この頼次が日でりで困っている時、祈願をして雨を降らせてくれた日乾に深く帰依して、一族をあげて法華信仰に入り能勢一円を法華に改宗させました。
この能勢家の守護神が「鎮宅霊符神」で、日乾により法華経で勧請するように改められ、これから能勢の妙見信仰が広まります。
妙見さんの坐像は能勢型といわれ、鎧を着て、剣を頭上にかかげ、左手で金剛印を結んだ形です。この剣はもと天に向かって持っておられたが、あまりに霊験があらたかすぎるので、受け太刀にされたといわれています。
妙法寺の妙見さんは、文政七年(一八二四)に日皓上人が、能勢家に伝わっていた受太刀姿の御霊像を拝受し、妙見堂を建立してお祭りした事に始まり、忍辱慈悲の御霊体は霊験あらたかで人の運を開き福寿のご加護ありと尊崇されてきました。
昭和初年には能勢妙見山本殿と同一の北辰殿が建立され丹波妙見山として心徳講、妙栄講、妙鶴講、丸栄講等の講中によりさかんに信仰され、現在も精神修行の道場として利用され、毎年7月には妙見夏祭大祭をお勤めしています。
お盆の行事は、人間の美しい心、思いやり、いつくしみの心がこめられております。お盆には今はなき先祖さま、父母、妻子が生家にもどってくると古来考えられ、心をこめて御精霊さまをお迎えします。
道に迷わないように迎え火をたき、墓には、盆灯籠をつけ、精霊さまが馬に乗ってお帰りになるというのでナスに割箸の足をつけ、とうもろこしの毛を尾にして馬を作り、野菜や果物を供え、喜びの対面が細くても長くなるようソーメンを供えしたり、ナスやウリ、洗米で作った百味飯食を無縁の精霊さまにお供えし、棚経をあげてもらい、亡き人に語りかけ、過ぎし一年を振り返る行事なのです。
お盆は、七世紀頃から始まったようですが、何故こんなことをするのでしょうか。それは死者に対する恐れと、追慕の情からこんな風習が生まれたのです。葬式や法事は死霊の冥福、追善、回向であり、それを三十三回忌まで済ますと、この世の穢れが浄化され、「ホトケ」となって子孫を守ってくれるとされ、感謝、報恩のお祭りをするようになったのです。
法華経は、正しい教えを実践することを通じて、正しい智慧を得て、それにより悟りの状態となり即身成仏すると説かれており、個人の悟りのみではなく、すべてのものの悟りを目標としています。この世を去った精霊も輪廻転生の世界で苦しまないために、生き残った者が功徳を積み、それを死者に回向することによって、迷いの世界にいた精霊は成仏することができるとされています。
人間にとって最も大きな悲しみは、自分が死ぬことよりも、自分が愛したものを失うことです。肉親の死はとてもつらいことです。子や孫の死は、もっと悲しいことです。一人の人間としての、「生命の不思議」に対する感謝の表現が供養であり、今は亡き親しい方が死後の世界でただ一人で餓え渇き苦しまないようにと願うのが慈悲の心です。
供養は生きているものにとって死者に敬愛・報恩の気持ちをつたえる唯一の方法です。先亡の供養は心から感謝の念をささげなければなりません。やがて自分も死する時がくるが「迷い」の世界に入らない努力を先祖に誓うのです。先祖をまつることは自分の足元を見つめ、自分の生活を守ることで、子孫の未来を開きます。年忌の供養も大切にしなければなりません。
お釈迦さまの十大弟子の一人に、神通力第一とうたわれた目連尊者がいました。尊者があるとき神通をもって自分の母の姿をみますと、餓鬼道に堕ちて痩せ衰えている姿がありました。これに心を痛めた尊者は、鉢に食物を盛って与えました。母は左手でこの鉢を持ち、右手で飯をつかむのですが、それが口に入る前に炎となって食べることができません。
母の苦しみをみて堪えかねた尊者は、母がどうしたら救われるかとお釈迦さまに教えを求めました。お釈迦さまは、母の罪が重く、目連一人の力ではどうすることもできないことを述べ、それを救う道を教えました。それは、七世の父母のため百味飯食、五菜を供えて、十分の衆僧を供養し、その力にすがることでした。
これから盆の期間(八月の十二日から十六日まで)中は、精霊棚を設けて、水・茶湯をはじめ、供飯、果物、野菜等を精霊棚にお供えをするようになりました。そして施餓鬼法要で先祖の戒名を記した塔婆をたて供養するのです。
棚経は、家族全員で、法華経の法味をささげることが大切であります。盆は七日頃から墓掃除をし、家の仏壇を掃除し、仏具を磨き浄め、精霊に供える野菜果物を求め、精霊棚を設け百味五果を用意いたします。迎え火をつけ精霊を迎えて、お寺さんに棚経をあげてもらい得脱を請うわけであります。
十三日を迎え盆、十六日を送り盆といいますが十五日に蓮の葉に飯を包んだ「蓮の飯」と「送り団子」を供え、お帰りになる精霊のみやげにするというのです。
祭るというのは迎え、もてなすということで精霊に喜んでもらい、自分の生き方をうかがい、霊と自分とが共同飲食し自分の生き方を反省し、自分は一代ですが名は末代、人間の行為は良きにつけ悪しきにつけ先祖を傷つけることにもなるので、俗にいう“親の七光”ともなれば“末代までタタル”ということにもなるので、精霊とそうしたことを語り合うのが施餓鬼の供養なのです。
施餓鬼は精霊をお迎えし、今は亡き人の冥福を祈り、鎮魂を願い三悪道を離脱して成仏していただく「魂」と「魂」との語り合いの時です。
宗祖日蓮上人は弘安五年九月八日、身延にお住い遊ばされること九ヶ年、その間お弟子やご信者の指導教育にたいへんお忙しい毎日でありましたが、お弟子やご信者のすすめにより、療養のため草庵をお立ちになられました。
庵の内には昼は終日一乗妙典の御法を論談し、夜は竟夜要文誦持の声のみす。伝え聞く釈尊の住み給いけん鷲峰を我朝此砌に移し置きぬ、霧立ち嵐はげしき折々も山に入りて薪をとり、露深き草を分け深谷に下りて芹をつみ、山河の流れも早き巌瀬に菜をすすぎ袂濡れて干わびる思いは、昔し人丸が詠じける和歌の浦にもしほ垂つつ世を渡る海士もかくやとぞ思い遣る、つくづく浮身の有様を案ずるに仏の法を求め給いしに異ならず・・・・。
身延のご生活が大変困窮であったことがしのばれます。
そして、おもてむきは常陸の湯に行くとし、内心は入滅をさとられ、秋色そぞろな甲斐路を十日の旅、竹の下を経て、十八日に池上宗仲の家に着かれたのであります。
池上宗仲の邸で、お弟子とご信者に立正安国論の講義をされ、これが上人の最後の講義となりました。
病重く間近かに入滅を迎えられることをさとられた上人は、お弟子やご信者に法華経の教を誤りなく後世の人に伝え、信心をたやさぬようにと遺命され、そして上人の終生の願いであった、帝都(時の都、京都)布教を、日朗上人の縁者の子、経一磨(後の日像上人)に遺言されました。
池上宗仲の邸で、お弟子や、ご信者一同涙を流しながら、合掌し声をあわせてお題目を唱えるなか、日蓮上人は眠るがごとく入寂遊ばされました。
秋のおわりにもかかわらず、庭園の草木は、桜をはじめ、いっせいにその花を開き、上人のご入滅を飾ったと伝えられています。
時に弘安五年(一二八二)十月十三日、午前八時、ご聖寿六十一歳でありました。この日を御報恩会式というのであります。御会式は、お彼岸や、うら盆の法要よりも、大切な報恩法要です。法華宗信徒ならば御会式法要には、必ず参詣するようにいたしましょう。
日蓮は教主釈尊の御使ならば、天照大神正八幡宮も頭を傾け、手を合せて地に伏し給うべき也。法華経の行者をば梵釈左右に侍り日月前後を照し給う。かかる日蓮を用いぬるとも、悪く敬はば国亡ぶべし。
妙法寺の会式法要は、十一月十三日です。