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妙法寺便りNEWS&FAQ

 節分祭 星まつり祭

節分のおはなし

節分とは、「季節を分ける」つまり季節が移り変わる節日を指し、立春・立夏・立秋・立冬それぞれの前日に、1年に4回あったものでした。ところが、日本では立春は1年のはじまりとして、とくに尊ばれたため、次第に節分といえば春の節分のみを指すようになっていったようです。

節分には豆をまきますが、豆は「魔の目(魔目=まめ)」に豆を投げつけて無病息災を祈る意味があります。「魔を滅する(魔滅=まめ)」に通じるということです。 ただ、豆まきに使う豆は炒った豆でなくてはなりません。なぜなら、生の豆を使うと拾い忘れた豆から芽が出てしまうと縁起が悪いからです。「炒る」は「射る」にも通じ、そして最後は、豆を人間が食べてしまうことにより、鬼を退治した、ということになるわけです。

節分には、鬼は外、福は内と言って豆まきをするのが、一般的ですが、法華宗のお寺では、法華経の行者を守護する神として、鬼子母神をお祀りされています。陀羅尼品という法華経26番目のお経があり、今日も読みましたが、その中には、法華経の行者に危害を加える者は、頭を7つに打ち破って罰を加えると書かれています。ですから、子供は抱かず、鬼の顔をしておられます。

このことから、鬼子母神さんに守っていただくため、鬼は外とはあまりいいません。そのかわり、節分がその年のあたり星をお祀りするので、お寺では七難即滅七福即生といいます。

この七難は、『法華経』二十五番目のお経であります、観世音普門品に出てくるのですが、火難・水難・羅刹(らせつ)難(鬼)、王難・鬼難(一般的な悪鬼をいいます)・枷鎖(かさ)難(手かせ足かせのようなもの)・怨賊難(敵対して害を加えようとする輩)をいいます。

 七福の徳目とそれをつかさどる福神は、つぎのとおりです。

 寿命、 有福、 人望、 清簾、 威光、 愛敬、 大量

(
) まず長寿をあらわす寿老人は、白髪の円満なお顔の老人で、この神は南極星が神格化された神で、人の寿命を司どるので寿星とも呼ばれています。

(
) 人望をあらわす福禄寿は、長い頭をした老人で、頭と胴が相半ばする程の長頭は人望をあらわしています。この神もやはり南極星が神格化された神なのです。

(
) 人望、正直をあらわす恵比寿は、大黒天即ち大国主命(おおくにぬしのみこと)の子、事代主命(ことしろぬしのみこと)だといわれ、このため恵比寿・大黒といってこの二神を並べて祀るのです。この恵比寿は裸に近い格好で鯛を抱えおおらかにほほえむお姿で、まさに足ることを知った無欲な神なのです。正直で人望を集めれば商売が繁盛するということです。
 この知足の心は素直で正直な心から生れるので、この神は正直をあらわすとされました。

(
) 大量をあらわす布袋は、契此(けいし)という中国実在のお坊さんでいつも杖と袋をもっていたのでこの名で呼ばれました。その大変大きなお腹から度量の広い大量の神ともされたのです。

(
) 威光をあらわす毘沙門天は多聞天とも呼ばれもともと帝釈天の四天王の一人ですが、その武装したお姿から威光をあらわす神と考えられました。

(
) 財富をあらわす大黒天はもともとは武力の神でしたが、わが国では大国主命と同じ神とされ、さらに、物を司どる大物主命(おおものぬしのみこと)とも同体だと考えられたため、財富をあらわす神とされたのです。

(
) 愛敬をあらわす辨財天は、もともとインドの河の神で、河川のせせらぎから音楽、芸能を、また「水を治める者は国を治む」ということから武力、そ して河川は肥沃な土地を造り、生産物を生むことから財富を司どる神〈辨財天〉ともされました。また、同時にその優しいお顔やお姿から愛敬をあらわす神とも考えられたのです。

 災厄を避け幸福を願うのが節分のお祭りになりますが、日々の暮らしへ影響を与えるという意味で、一番怖いのは私たち自身の人間の心です。日蓮聖人は、人間の心に、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上という六道があると説かれています。

 地獄とは、人が瞋恚(しんに:怒り)によって心が占められ、何の余裕もなく、いかりによって世界から孤立してしまうさまをいいます。人間の本質は、他の人との共存の生活の中に維持されますが、孤立するということは、人間の本質に反し最も苦しい状態であって、これを地獄という言葉で表しています。地獄絵などでは残酷な殺され方をするさまが描かれていますが、これは、あらゆる方法でその人の存在を否定され続ける境地をわかりやすく表現したものです。 

 餓鬼というのは、貪欲によって心が占められたときに落ち込む悲惨な境地を言います。この貪欲とは、食をむさぼり、衣をむさぼり、他の人の親切をむさぼり、奉仕をむさぼり、尊敬をむさぼるさまをいい、人の物や心を欲しがる心が強ければ強いほどこれを得られない悩みが深く、この悩みの境地を餓鬼という言葉で表現しています。

 畜生とは、人間の眼に触れる犬や猫や牛や馬等の動物のことです。そもそも人間は本能と衝動の二つによって動かされる存在であり、自己保存の本能、種族保存の本能、その他の本能が、潜在意識にあり、それが内外の刺激によって衝動を感ずるようになり、行動として表れると考えられます。畜生は、本能の赴くまま衝動に動かされてあさましい生活をするのですが、人もまた衝動によって動かされて、あさましい生活をすることがある。このような状態を畜生道に墜ちたと言います。

 修羅とは、争いの絶えない状態です。これは利益追求のため口実を設けて、自分の行為を正当化し、その責任を負おうとしないことにより、他者に責任転嫁し、争い続ける心の境地をいいます。

人間とは、平生をもって本質とすると言われます。平生とは、地獄や餓鬼や畜生等の道に落ち込もうとするけれども、その途中で反省して、元へ戻ってくる。すなわち自分の行動を客観的に判断し、行いを正すことができるこころの境地をいいます。

 天上は、歓喜をもって本質とする穏やかな心の境地をいいます。

 表紙で、円の形にして心を表している図をご覧下さい。

心をいろんな状態に分けていますが、外界からいろんな難が襲ってきても、法華経を唱えたもつ者は、心を整えることによって、これらから逃げることができるという教えを現した図になります。

生きている間に、六道から離れて仏の境地にいたることが成仏することの意味であるというのが、私たちの宗派の依る教えです。

本年一年の皆様のご健康とご活躍を御祈念いたします。

合 掌


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