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日蓮聖人は、法華経こそがお釈迦様がこの世に出現した本懐であり、寿量品第十六を根拠に、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏という十界は、それぞれの境地にそれぞれ備わり(十界互具)、いわば私たちの日常の心にあらゆる事象がすべてそなわっている(一念三千)という教義を樹立し、「南無妙法蓮華経」と唱えられ立教開宗されました。 「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩の九種の境地は、無始無終久遠である本仏の境地にふくまれている」ということであり、「本仏の境地は無始無終久遠である九種の境地にそれぞれに備わっている」ということであります。 私たちが孤独にさいなまれ悩み苦しみ、あるいは怒り心頭に発するときは、私たちに備わる地獄界が表面に出たときであり、貪り求めるときは心の中の餓鬼界が外面に顔を出したときであり、他者と張り合い争うときは修羅界が他界を圧したときであり、同情して慈悲の手をさしのべるときは菩薩の心が芽吹いたときです。 こうみてくると、私たちに地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩の九界が備わっていることは経験上理解することができますが、はたして「仏界」が私たちの心に宿っているのか、仏がわが心の中に住んでいるのかという段になると、なかなか納得しにくいのが私たちです。 お釈迦さまが仏になられる前に修行したあらゆる修行(因行)も、また、お釈迦さまが仏になってから後の「仏というもの」の全部(果徳)も、みなこの妙法蓮華経の五字に備わっているのであり、私たちがこの五字を受持すれば、お釈迦さまが仏になる前に修行したあらゆることも、仏になってから得たすべてのものも、自然に私たちにゆずられるのであります。 私たちは末代悪世の凡夫であるから宗教的には低俗であるかもしれない。しかし「南無妙法蓮華経」と口に唱えることはできます。南無妙法蓮華経と唱えさえすれば、私たちの心の中の「仏界」が姿を現す、つまり「成仏できる」のであるといわれています。 |
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![]() 日蓮聖人 波木井 御影 |
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日蓮上人は、南無妙法蓮華経と口称すると、どうしてそこに浄土が顕現し、また唱えた人が何故に成仏できるのか、ということについて「法華初心成仏抄」で次のように教えておられます。
およそ妙法蓮華経とは、われら衆生の仏性と、梵王・帝釈等の仏性と、舎利弗・目連らの仏性と、文殊・弥勒らの仏性と、三世の諸仏のさとりの妙法と、一体不二なる理を妙法蓮華経と名づけたるなり。故にひとたび妙法蓮華経と唱ふれば、一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔法王・日月・衆星・天神・地神ないし地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・一切衆生の心中の仏性を、唯一声に喚び顕わし奉る功徳は無量無辺なり。 わが己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、わが己心中の仏性が、南無妙法蓮華経とよびよばれて顕われ給うところを仏とはいうなり。たとえば籠の中の鳥なけば、空とぶ鳥のよばれて集まるがごとし。空とぶ鳥の集まれば、籠の中の鳥も出でんとするがごとし。口に妙法をよび奉れば、わが身の仏性もよばれてかならず顕われ給う。梵王・帝釈の仏性はよばれてわれらを守り給う。三世の諸仏の出世の本懐、一切衆生の皆成仏道の妙法というはこれなり。 |