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 ヒマラヤ山脈のふもと、ネパールとインドの国境に近いところに釈迦族の小国がありました。その国のひとびとは米作を生業として、政治的には共和制をしいていましたが、その国の主権者の子として釈尊は生誕しています。釈迦族の本拠はカピラ城でバスティ地方の北、ネパールの南の国境カトマンドゥの西方200キロのところです。

 インドは50万年前にさまざまな地域に人類が住んでいたことが知られていますが、5000年前にハラッパ、モヘンジョダロ中心にインダス川の流域に整然とした宏壮な諸都市を建設し、銅器時代文明を成立させています。この文明を残した人びとは、アーリア人よりも先にここに住みついてエジプト・メソポタミア文明以上の文明を発祥させ発展させていました。最盛期にはインダス川流域の南北1500キロにおよぶ広範な地域に高度な文明が成立しました。

 しかし、この文明はアーリア民族が侵入してきて完全に滅ぼされたようです。アーリア民族は紀元前1700年ごろから原住地を出てヨーロッパに定住するもの、東方に向ってアジアに侵入してインド‐イラン人となったものなどがあります。アーリア人がインドに侵入したのは紀元前1300年ごろとされています。原住民との戦闘の経過は「リグ・ヴェーダ」の詩のなかに表現されていますが、先住民はアーリア人の支配下に隷属し、インド社会最下の隷民階級となりダーサとよばれています。

 釈尊は釈迦族のゴータマ姓の家系に生まれ、父はスッドーダナで王とよばれていましたが専制君主ではなく、貴族会議政治の代表者であり民主的色彩の強い王国でありました。この釈迦国は、カピラ城を中心に釈迦一族が各村の首長となって、この首長の合同協議で共和政体をつくっていました。その面積は東西80キロ、南北60キロほどで現在のインドとの国境に近い地域にありました。
 しかし、この釈迦族の国は南の大国コーサラの支配下にありましたので完全に独立した都市国家ではなかったのです。当時ガンジス川流域にはコーサラ、マガダの他にも大小の王国や共和国があり、抗争をくりかえしていました。カピラ城の釈迦国もコーサラ国に滅亡させられましたし、コーサラ国もマガダ国に滅亡させられました。

 釈迦族がアーリア系の白色人種であったかどうかは不明で、アジア系の民族かもしれないともいわれていますが、農耕中心に平和を愛好する人々だといわれています。はじめアーリア人と被征服民ダーサ(非アーリア人)の2階級社会でありましたが、階級差別が複雑になりカースト制が成立します。釈尊は出家することによりクシャトリヤの身分を捨てられました。
 この頃には政治経済面で急激な変化があり、古来の階級制度も崩壊して王族の出身でなくても王位につき、バラモンでなくても聖典に通じるものもありましたので、バラモンがそれぞれの階級のつとめを定めているのにたいし、仏教はバラモンの虚偽であると反対しています。

 釈尊がお生まれになったのは、ネパールのルンビニー苑であり美しいところと仏典には書かれています。当時の風習で、妊婦は実家に帰ってお産をすることになっていましたから、母のマーヤー妃は実家に帰り、デーヴァダハ城の近くのルンビニー苑で4月8日に出産され、ゴータマ・シッタルタがお生まれになりました。それは紀元前463年のことです。
 このルンビニーには、釈尊入滅後200年ほどしてからマガダ国王として北インドの広大な領土を支配したアショーカ(阿育王)が碑を建立しています。この大理石の円柱には次のことが書かれています。
 天愛愛見王(アショーカ王)は即位20年ののち自ら来て礼拝し、ここは仏陀シャキ ャムニが誕生されたところであるから、石の柱を建てさせた。ここは世尊が誕生されたところであるから地租を免じ、8分の1税のみ課する。



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