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 宗教的聖地とされていたベナレスのサールナートで最初の説法(初転法輪)をされてより釈尊は四十五年間にわたりガンジス河流域で布教をされました。国王、大臣、貴族、商人、労働者、さらには遊女にいたるまでのあらゆる階層の人びとが釈尊の説法を聞きに集まりましたが、特に商人と手工業者が多かったようです。

 釈尊は種々の方便、手段をつくして対手の能力に応じて比喩や因縁談をとり入れて理解できるように説法されています。当時の社会一般の信仰や慣習を尊重されながら、仏教の信仰を説かれてあらゆる人々を仏弟子にされました。

 その中には、釈迦族が従属していましたコーサラ国の首都舎衛城に住んでいた長者スダッタ(須達多)もいました。釈尊に帰依しましたスダッタは舎衛城の南方郊外にあったコーサラ国の太子祇陀の園林をゆずりうけ、これを釈尊の教団に寄進していますが、これが有名な祇園精舎です。

 この精舎のことは「平家物語」の最初にでてきますが、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす。おごれる人も久しからず唯春の夜の夢の如し。猛き者もついには滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ」の名文で知られております。

 釈尊の教団では、舎衛城の祇園精舎と王舎城の竹林精舎が布教活動の拠点となり毎年の雨期三ヶ月出家者を集めて修行する場として使用されています。さらに釈尊の晩年にはコーサラ国王のパセーナディ(波斯匿)も帰依して釈尊の信者として布教に協力しましたので仏教教団は壮大な僧院のなかで、修行と並行して教学研究の進展をみるようになりました。

 しかし、そのころから釈尊が活躍されていたガンジス河中流域では諸国家の勢力均衡が破れて戦争が多発するようになりました。コーサラ国では波斯匿王の王子毘瑠璃が父王をしりぞけて王位につき釈迦族のカピラ城へ攻め入ります。そのコーサラ国もマガダ国王となりました阿闍世王によって滅ぼされてしまいますが、かくしてマガダ国はガンジス河中流域諸国を制圧して本格的な統一帝国となりました。

 阿闍世王が活躍していた頃、釈尊は王舎城郊外の霊鷲山に滞在されていましたが、釈迦族の滅亡や提婆の反逆など悲しむべき事件が起こっています。釈尊はマガダ国が諸国を攻撃して緊迫した状況でありましたが、侍者阿難と共に王舎城をあとにして、ガンジス河をわたられ西北のヴェーサーリからクシナーラーに行かれましたが、この地で重い病にかかられました。

 娑羅双樹の間に横たわり、北を枕にして西面して臥され、数人の弟子と信者たちに見守られながら安らかに息をひきとられました。現在この地に釈尊の御遺体を火葬にした跡と石刻の仏涅槃像があります。臨終を見守った阿難にたいし、最後のことばは、「法を師とし、つねに精進努力して懈怠の心を起してはならない」ということでした。

 菩提樹の下で一切の苦悩を解脱された釈尊も生身の肉体の死によって完全な寂静の境地にはいられ、釈尊のような偉大なる聖者でも肉体の老・病・死はさけられなかったのです。諸行無常、是生滅法、生滅滅己、寂滅為楽の詩頌でそのことを示されています。釈尊の御遺体は火葬にされ、マガダ国、釈迦族などの八ヵ国の人が八つに分け、それぞれの国に塔を建立して供養をすることになりました。

 紀元前五世紀に起った仏教は釈尊の御入滅された紀元前三八三年ごろにはまだガンジス河中流域の中インドにひろまっていた地方教団でありましたが、紀元前三世紀のアショーカ王の出現で釈尊御入滅の百年後ごろから全インドから国境をこえ、民族をこえて流布されていきました。アショカ王は仏教に深く帰依していましたので、国内統一を成しとげてから、武力の勝利よりも「法」による勝利こそが大切であるとして、積極的に仏蹟巡拝を行い、隣国のシリア、エジプト、マケドニアへも仏法宣布の使をおくり仏教信仰をすすめています。セイロン(スリランカ)へ伝えられた南伝仏教、ガンダーラに栄えた説一切有部の仏教などであります。

 仏教はマウリア王朝の統治政策や、アショーカ王の積極的仏教興隆策、さらには貿易商人の活動もあって世界宗教へと成長していきました。



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