ご相談・お問い合わせはTEL.0795-87-0090 | |||
![]() |
〒669-3812 兵庫県丹波市青垣町小倉809 |
![]() 日蓮聖人は、承久4(1222)年2月16日に現在の千葉県安房郡小湊にお生まれになりました。幼少の頃より利発で、勉学のため12歳ときに近隣の名刹清澄寺(せいちょうじ)へのぼられ道善房(どうぜんぼう)に師事、16歳で正式に出家されました。 修行が進むにつれ、「釈尊の説かれた道は一つであるのに、どうしてさまざまな宗派があり互いに争っているのだろうか」という疑問をもたれた聖人は、その答えを求めるため清澄山を後にされ、京都の比叡山を拠点に諸国のお寺を遊学されながら、さらに多くの経典を研究されました。そして、清澄寺入山から20年の年月を経て、ついに「法華経」こそが釈尊の教えの根本であり、救いの道は法華経にあるとの確信を得られます。 清澄寺へ戻られた聖人は、建長5(1253)年4月28日、旭が森の山頂で昇り来る太陽にむかい、「南無妙法蓮華経」と始唱され、立教開宗(りっきょうかいしゅう)を宣言されました。このとき、名を「日蓮」と改められます。 ![]() 法華経の布教を開始された聖人は、人々を正しい仏法に導くことでその不安や苦しみが救えるとの確信のもとに辻説法や討論を通じて民衆に訴えかけられました。しかし、世情は不安定で度重なる災害により人々の暮らしは困窮をきわめる惨状でした。 そこで、聖人は「立正安国論」を鎌倉幕府執権北条時頼に奏進されると同時に、法華経こそが末法の世を救うと説かれ、改宗を迫られました。 ![]() ところが、聖人の諫言は、幕府や誤った仏法だと指摘された他宗の信者の反感を買い、聖人はこれ以後、大小様々な迫害を受けられることになります。 なかでも松葉谷草庵の焼き討ち(松原法難)、伊豆への流罪(伊豆法難)、小松原での武士による襲撃(小松原の法難)、龍ノ口の処刑未遂に続く佐渡への流罪(竜口法難)が、四大法難として有名で数々の逸話が残されています。 ![]() 極寒の佐渡で、聖人は飢えと寒さに耐えられながら、たび重なる受難や迫害を受けたご自身をぎりぎりまで内省され、聖人の教えの根本聖典とされる「開目抄」、「観心本尊抄」、さらに「大曼荼羅本尊」を書き上げられました。 開目抄では、「我、日本の柱とならん。我、日本の眼目(がんもく)とならん。我、日本の大船とならん。」と強い信念で身命を惜しまず法華経の教えを弘める決意を改めて説かれています。 ![]() 3年後、赦免された聖人は鎌倉に戻り幕府に三度目の諫言(かんげん)をされますが、受け入れられず、文永11年5月、ご自身滅後の弟子の教育のため、また教学の充実に努めるため甲州の身延山に入られました。身延山では、「撰時抄」「報恩抄」を著されています。 ![]() 日蓮聖人は、弘安5年9月、湯治療養のため常陸の国(現在の茨城県)の温泉へ向かう途中に立ち寄られた武蔵国(現在の東京都)の池上邸で最期を迎えられます。 「立正安国論」の講義をされ、六人の本弟子を定め弟子たちに心を一つにして法華経の救いを伝えるように遺言され、ご入滅されました。弘安5年10月13日、聖人が六十一歳の秋のことでした。このとき大地がゆれ、山いちめんに桜が咲いたと伝えられています。 |