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山垣城址 万歳山

 足立遠政は武蔵の国足立郡より承元三年(1209)丹波に転住し、氷上郡佐治荘を与えられ、それ以来足立氏は専ら佐治郷の経営にあたり、その曾孫遠谿祖雄が小倉村に高源寺を開創した。この高徳の師の法統は長くつづき、また足立一族は宗教心の向上啓発されるもの多く、よって他族に侵されず、他族を侵さず長くこの地の支配をした。

 足利中期より次第に勢力を得てきた新郷の赤井氏は附近の豪族を制圧し、殊に悪右衛門直正は黒井城主となり丹波半国と但馬の一部までもその勢力圏に入り、足立一族も遂にその幕下に加わるようになった。

 丹波志によると、「山垣城主足立彦助の代に明智光秀の征伐により一旦落延び、其の後彦助此所に立帰り山垣殿と云えり」とあり、又、「加茂郷上村足立氏、古えは赤井氏家臣の筋なり」 「牛河内村先祖山垣城主の長男四郎左ヱ門基依、山垣村没落後此所に住す」、などから見ると天正年間の足立一族の中には、一部赤井氏たちの家臣となっていた者もいるが、多くはなお佐治郷郷士として赤井氏または西波多野氏らに従属していたのではあるまいか。

 数年にわたり、幾度となく繰り返された光秀の大攻勢に抗した足立一族は、たとえ本拠山垣落城、諸寺焼亡、家屋焼失などの戦禍を受けても依然として祖先の墳墓の地に留まるものが多かった。

 丹波志によると、「当所郷士、足立氏左ヱ門太夫というもの、真言宗の仏音にて智願院を招き、三日三夜宗論問答し、遂に帰依して改宗す。其の上、足立氏の下屋敷を開山に寄付す。故に、建立一寺のものなり」とある。

 天文年間であるから天正以前で、光秀の丹波攻略戦以前にすでに妙法寺の建立されたことを証明している。各種の郷土史をひもといても、光秀らによる丹波天正の乱において足立権太兵ヱ基則についての記述は殆んど見られない。

 足立一族はこの動乱で、本家山垣殿はじめ、その一族一統の殆んどが或いは但馬に、また遠く因幡丹後へと亡命し、その他現地に留まったものはいずれも帰農したが、不思議にも基則一族だけは別であった。それは、その後天正十一年(1583)正月十八日に、権太兵ヱ基則は子息左近進宗忠並びに舎弟弥七郎宗立と、親子・兄弟三人が亀山で自害している事実によって明らかである。

 延々五ヵ年もつづいた光秀の丹波動乱は、天正七年八月赤井氏の居城黒井保月城が落城、同年十月福知山鬼ヶ城の落城で終っている。すると権太兵ヱは、それより四年後自害していることになる。赤井氏に代って、斉藤利三が黒井興禅寺を本陣として二万石の領主となり、また天正十年(1582)六月には光秀の謀反によって信長が自害し、その後秀吉の天下となるのであるが、足立権太兵ヱは足立の主流を離れ、その近親者と共に造反者となっている。

 足立権太兵ヱの足立家主流からの造反、いつの間にかできた光秀との主従関係によって、菩提寺妙法寺の安泰と従来からの領地の安堵を得たものの、本能寺の変により勝手知った丹波各地を転々とするうちに、「明智の残党狩り」にかかり、遂に天正十一年正月十八日亀山で三人揃って自害したのではなかろうか。
 権太兵ヱの孫、宗忠の三男にあたる孫兵ヱ尚秀は、当時紀州和歌山藩に仕えていた叔父の碓井重兵ヱ守長を頼って行き、その後町奉行となっている。
                                                                 ( 足立勲 記 )


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