本文へスキップ

   ご相談・お問い合わせはTEL.0795-87-0090  
   〒669-3812 兵庫県丹波市青垣町小倉809




絹本着色 縦109.2 横80.4 鎌倉時代 正中2年(1325)


 大仏師法眼命尊(みょうぞん)は、大夫法眼快智の孫にあたる南都絵師である。この命尊について従来知られている史料は二点である。一つは、興福寺の吉祥天像台座裏墨書である。
 「興福寺金堂御本尊吉祥天女 御衣木加持并開眼供養導師 招提寺第十代長老慶円 絵所大仏師法眼命尊 木所大仏師 寛慶 奉行僧招提寺知事慶朝 暦応三年庚辰五月晦日 供養畢 同六月一日 自招提寺奉入興福寺」

 本像は暦応三年(1240)に律僧によって造像され、興福寺に奉納されたもので、厨子に納められており、後壁には「七宝山図」、扉には「梵天・帝釈天像」が描かれている。おそらくこれらも命尊の手になるものではないかと思われる。

 もう一つはかつて『国華』四六八号に掲載された図で、藤田家に元亨三年(1323)に法橋命尊が描いた涅槃図があったが、現在は所在不明である。ところが、これとは別にもう一点、命尊筆の涅槃図が現存していることを知った。所蔵者は妙法寺という法華宗寺院である。裏面上巻に次のような墨書がある。

「正中二年乙巳三月廿三日開眼導師西大寺泉律師 絵師命尊 南京法華寺比丘尼玄本本尊也」、下部に「南都海龍王寺常住也」とあって、さらに別筆で、「文禄三年甲午仲春中旬四日自正中當二百六十六年丹州氷上郡左治庄妙法寺常住也」とある。これによれば、本図は旧藤田本が描かれた翌々年の正中二年(1325)に、旧藤田本が法華寺の尼僧、行施の本尊として描かれたのと同じように、法華寺の玄本という尼僧の本尊として描かれたものである。釈迦の枕もとに尼僧が描かれているが、これは玄本自身の姿であろう。


 妙法寺自体は、天文二十二年(1553)に、当地の地頭、足立基則の創建になるが、明智方についた同人が天正十一年(1583)に自害したため、その後は、妻女の実家である桑山重晴によって外護された。重晴は大和郡山城主であった豊臣秀長に仕えている間に法華寺に隣接する海龍王寺よりこの図を入手し、文禄三年(1594)までに妙法寺に寄進したのであろうか。伝来の詮索はさておき、本図も律僧によって開眼供養がなされている点に注目しなくてはならない。

 西大寺に伝わる文殊五尊は叡尊の十三回忌を期して造像されたものであるが、本尊胎内納入品の大般若経巻五七三の奥書に、「永仁三年三月十日 書冩了 少比丘尼玄本」とある。同じく巻五四七には「永仁六年三月廿四日 書冩了 少比丘尼行施」と行施の名も見出される。
 永仁三年(1295)は涅槃図が描かれるおよそ二十年前である。叡尊を慕う尼僧達が自らの臨終に備えるためにともに涅槃図の制作を発願したのであろう。寸法も描表装を含めて、縦117.2cm、横76.7cmと小さい。

 命尊は妙法寺本の墨書では「絵師命尊」と記されているだけであるが、その前年には法橋位であった。したがって、静恵書状に見える「大夫法眼」は命尊ではあり得ない。

 妙法寺本涅槃図は、正中二年(1325)の制作になるものであるが、金泥を盛り上げる手法、色彩の鮮烈さ、あくの強い人物表現などは、年記がなければ南北朝から室町時代にかけての作品として扱われかねない特色を示している。その点は、吉祥天厨子後壁の「七宝山図」における、鼻を巻きつけた宝瓶から宝珠をまき散らす白象の、笑みを浮かべた生々しい表情に通じるところがある。
 一方、扉に描かれた梵天と帝釈天の方は毅然とした姿勢と、端然とした表情に描かれており、いくぶん雰囲気を異にしている。


                文化庁文化財調査官 宮島新一    



法華宗妙法寺本堂

shop info.店舗情報

法華宗 立正山 妙法寺

〒669-3812
兵庫県丹波市青垣町小倉809
TEL.0795-87-0090
FAX.0795-87-2180

法華宗妙法寺本堂