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日脩上人筆の智願院像
天正9年(1581)

妙法寺は、智願院日岏上人により開山されたお寺です。

 上人は、永正十三年(一五一六)にお生まれになりました。九才の春、当時最も有名であり、学徳ともに優れていた本隆寺開祖、常不軽院日真大和尚の門に入り、剃髪度牒を受けて名を圭讃と改めました。しかしながら、お師匠さまの日真大和尚は、この時すでに八十二才であり、三年後の享禄元年四月に八十五才でおなくなりになったのです。開山さまは、十三才の時に教え親であるお師匠さまになくなられ途方にくれてしまいました。

 そこで、同じ日真大和尚のお弟子で「仏像造不之論」を著し、北陸に舞鶴に、はたまた叡山等で学説、徳行の高かった本隆寺第六世証誠院日雄上人のお弟子にして頂いたのであります。御開山さまは、これから約二十年間昼となく夜となく師日雄上人に御給仕されることは勿論、数学を研鑽され、またご自身は質素な衣服と粗末な飲食で忍耐と辛抱をつづけられ、行学とも止暇断眠の修行をつづけられたのであります。やがてその御苦労と御修業がみのりまして、二祖の日鎮上人は御自分のお名の智願院というのを、御開祖さまの日岏上人にお譲りになって大いに大法弘通、広宣流布に更に精進するよう励まされたということです。

 名実ともに備わった御開山智願院さまは、いよいよ開祖日真大和尚の遺言といわれる「心を宗外の広宣流布に向けて勇猛精進せよ」を実行にうつすときがきたようです。天文十五年三十才のころ御師匠さまの発祥の地、山陰に向かって行脚布教の途に発足せられたのであります。村に人あれば法を説き、野に民あらば法華経を唱え、歩を止めては題目を高唱し法鼓を打って巡錫すること数年に及びました。

 やがて、このご開山さまの御修行の有様を耳にした足立権太兵衛基則という武士が、法門の話をきき、そのお人がらに感服して境内地を寄進し、寺を建てて上人の道場として大信者となったのです。上人はこの寺を妙法寺と名づけ、法華経本門の信行道場とされたのです。時に天文二十二年(一五五三)上人三十才のことでありました。

 さて、妙法寺を開創されました翌年、上杉謙信と武田信玄とが川中島で戦い、また織田信長が今川義元と桶狭間に戦うなど、世情騒然の有様であったのです。天文の初めには叡山の僧徒が京都二十一ヶ寺の本山を焼討にし、総本山本隆寺も堺に非難するなど大変な時でありました。京都に帰られた開山さまは、京都洛北の信者森吉太夫から京都在住の一寺を寄進されましたが、この寺が本久寺であります。森吉太夫は丹波周山の人というのみで、足立基則と関係があったのかもしれません。

 織田信長が足利将軍義昭を京都より追放し、室町幕府が滅亡した天正の初め、日岏上人は再び山陰地方に巡られ、黒井に蓮華寺を建立されました。更に摂津に行かれ、不惜身命の行化を続けられ、多田満仲の末流で能勢長左ェ門頼高が信者となります。この地に永享八年頃創建された智海坊という小庵があったのを再興して寺を建立、妙法蓮華経を能く持ち奉るということから持経寺と命名されました。そして六十歳の坂を越えられてから本久寺に止住されたと思われます。

 日岏上人は、本隆寺七祖日脩上人の法兄であり、この日脩上人の書かれたものが妙法寺に残されていますが、それによりますと日岏上人は二祖日鎮上人の号を頂き、数ヶ寺を開き、これを本隆寺に嘱させ言行能く合致したまことに遊方の大士である。天正十一年五月五日日岏上人の臨終に際し、枕側に座し、ともに誦経唱題し、永袂の情溢れて衣袖を湿す。とあります。智願院日岏上人の偉業をしのび、勇猛精進、法華経本門寿量の弘教に不惜身命の願行に励まねばなりません。

                                 矢放日城「日岏上人さま」より

法華宗妙法寺本堂

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