釈尊の悟りはどのようなものであったかは種々の経典がありさまざまに説かれています。共通するものは、人間をありのままみつめることにより、苦の原因を知り、清浄な行為と瞑想を行って心の汚れを取りさることでありました。釈尊が追求されたのは人生の矛盾であり、人間の悩みをいかに解決するかにありました。
人はだれも生まれ、老い、病み、死んでいく存在ですが、生きるとはどのようにすることか、死ぬとはどのようになることかという生死の問題を解決することでありました。
ありとあらゆるもの、生きとし生けるものは刻々変化して、とどまることなく、水の流れは太古より流れていても、その水は同じではないように、人も時間の経過でしか変化に気づきません。昨日も今日も同じものが続いているように思うのは錯覚なのです。昨日の自分と今日の自分、そして明日の自分を考えてみても経験と記憶によって不変な存在だと思ったり、幸福の追求も、この世もあの世も同じ状態が持続すると考えたりもしますが、それらはとどまることはできず諸行無常なのです。
そして、人間の欲望ははてしなくあり、その欲望によって憎しみや悲しみの連続の人生を送ることになり、自分の存在そのものが苦で、人生は苦か、苦の種となるものにみちていて、愛すべきものも、執着していることも苦の原因でしかないとされます。
苦の原因は、人々の心の迷い=煩悩=から起こり、煩悩の原因はすべてのことを自己中心、自分本位に考えることにより執着心を起こすことによります。絶対に離すまい、絶対に別れまいと執着すると苦悩となります。この執着心のことを我見とか、身見といわれていますが、これをなくすることが必要なのです。諸法無我の真理を悟らねばなりません。
釈尊が体験されたように修行することができれば、苦しみは消え静かな喜びの世界に参入することができるとされ、煩悩の火の消えた境地のことを涅槃寂静といわれています。五官の味わいえない新しい喜びの世界のことで、煩悩を止滅させると寂光の世界に到達することができるとされています。
さらに、この真理の世界に到達する方法として八正道が説かれています。八正道は、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定といわれていますが、釈尊の教えを頭の中で追求するとともに言葉や動作をそれにかなうように務めることなのです。苦を滅する手段として、真理に対する追求と実践する生活の確立が大切だとされています。
釈尊が六年の歳月をかけて苦行し、断食し、瞑想によって求められたものは、制御しがたい自己の欲望をどのようにして止滅するかであったのですが、その方法として十二因縁の説が説かれています。
われわれは生まれた時から迷い、その迷いの上にいろいろな行為をして死んでいきますが、最初過去世に起こした迷い=「無明」=真理に対する智慧のない状態が説かれていて、この無明に基づいての所業が次の「行」であり、過去世の迷いと行によって今生に托胎した時に「識」があり、胎内で形体が整わない状態を「名色」、胎内で六根具わりますと「六処」といい、出胎以後の乳児の状態を「触」といい、成長して感覚が発達したものを「受」といい、少年期となって物欲が起って来たら「愛」となり、その後欲望が起こり執着するようになることを「取」といい、十番目の「有」は愛と取によっていろいろの業を造る状態をいい、未来に生を受ける状態を「生」といい、そのあとに「老死」がまっているとされています。
過去、現在、未来の三世にまたがる因縁を説いています。
人間は生まれながらに迷い、自己中心に物を見、愛憎の業を造っているので苦の原因を解明すると無明を打ち破らなければ、苦からの脱出はできないとされています。釈尊はこれらの真理を悟られ大悟して仏陀となられました。
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