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 釈尊は悟りをひらかれてより四十五年間仏教伝道につとめられましたが、その伝道は人生の苦からの離脱を多くの人々に伝えることでありました。菩提樹の下で悟られたことのうちで最も大切なのは、世間は縁起しているということを発見されたことです。縁起というのは、自然界の真理のことであり、すべては原因とそれに付随した条件との相乗作用によって結果があるということです。どんな原因も一定の結果を生むことはありません。原因は同じでも、それに付随する条件で結果は変わるという当然のことなのです。


 人の身体と精神の関係も相互に縁起しているのです。身体が健康でなければ、精神も健康でないし、精神が健康でなければ身体も健康でないということです。身体から生ずるものはすべて関わりをもっているとされ、迷いや悩み、安らぎなども身体から生まれる心の働きで、それらは縁起しているとされます。


 苦が生起する原因は愛着と歓喜したい欲望、享楽を求める欲望、生命を存続させたい欲望などによるとされ、苦を消滅させるには欲望を離れて完全にすてきり、執着をたち切ることをしなければならないとされています。欲望を離れるためには、快楽を追い求める生活をやめることですが、同時に苦行のような極限にまで肉体を苦しめる極端をさけて「非苦非楽の中道」に生きることが最善であるとされています。


 人は五つの要素からなりたっていると教えていますが、その五つというのは肉体と、感覚する働き、色や形を心に形成する働き、意志の働き、ものを区別して認識する働きのことで五蘊といっています。しかし、この五蘊というものはどれも本体のないものですが、それが人を形成しているので、もとは何もなかった五つの要素が縁起して人が作られているということから、身体は仮のものであり、自然界から一時のあいだ借りているとされています。このように人をみるとすべては空であり、執着するものも欲望するものも本来ないので、とらわれのない自由な人として生きることになるというのです。


 したがって、人の本性からいえば生まれによる差別もなければ、男女の差別もないのですが、インドの古代からの思想には、生まれによる差別を制度化し、不合理な信仰をする結果、社会をさらに暗くし苦悩多いものにしているというのです。人の差別は生まれによるのではなく、人の日々の行いが善であるか、悪であるかによって差別されるべきで、誰でも理想の存在になり、悟りを開くことができるとされ、人の本性に差はないとされます。


 そして、あらゆる対象に執着しないとする立場にたつと、真理(法)についても同様であり、真理であるからといって、それに執着する必要もないというのです。真理(法)、あるいは真理による教えは人に迷いの此岸から悟りの彼岸に導くためのもので、河を渡る筏にすぎないのです。彼岸に渡るのに筏が重要な働きをするからといって、河を渡してくれる筏を背おって陸路を歩むことはないのと同様に、河を渡ると筏をすてるように真理(法)もまた捨てなければならないとされています。このように私たちの執着の心を徹底して否定し、とらわれのない自由な人になることが説かれています。釈尊が目指されたのは人間のはたらき、あり方にあったのです。



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