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 釈尊は五人の聖者と鹿野苑に滞在されて、托鉢されていましたが、ベナレスの街でヤサという青年に出あわれました。ヤサは富豪の一人息子で、妻や侍女たちに囲まれ不自由のない愛慾の日々を送っていましたが、その生活に嫌気がさしていた時に釈尊にあい鹿野苑で説法を聞きます。

 常に慈悲心をもって困っている人や宗教家に布施をして戒律を守る生き方に感動して出家を希望しました。ヤサが仏弟子となりますと、親、友人など五十人が続いて仏弟子となりました。また、釈尊がベナレスからマガダ国に行かれる途中で三十人の青年に出あわれますが、この三十人も出家して弟子になりましたので九十人の弟子にふくらんでいます。

 マガダ国ではカーシャパという姓の三人兄弟のバラモン修行者がいました。それぞれ、五百人、三百人、二百人の弟子をもって林間で火神を祭り苦行を続けていたのですが釈尊の威厳にみちた指導により三人の兄弟とも、その弟子とともに帰依し仏弟子となりましたので出家者は大集団となりました。

 マガダ国の首都に向う途中、この集団は象頭山にしばらく住していましたが、釈尊はここで執着を離れて解脱することを比丘たちに説法されています。人の心の中の貪欲(むさぼり)、瞋恚(いかり)、愚痴(おろかさ)などの煩悩の火を消さなければならない。それは、生まれ、老い、病み、死にうれい悲しむ苦悩を正しく観察することにより、誤まった知覚、思念を離れることができ、それによって貪瞋痴の三毒が消えるとされています。

 当時インドで最も強国でありましたマガダ国での教化は進展し、弟子となる人も多くありましたが、国王のビンビサーラ王は進んで教団のために竹林精舎を寄進しましたので、ここに仏教教団が成立しました。かつてのマガダ国の首都ラージャグリハ(王舎城)は五つの山に囲まれた盆地であります。ビンビサーラ王が寄進した竹林精舎もここにあり、晩年に釈尊はこの地の霊鷲山の山頂に住んで法華経を説かれていますし、釈尊入滅ののち第一回目の結集が開かれた七葉窟もこの地であったことから仏教教団の宗教活動の中心地となります。

 この頃に舎利弗や目連、摩訶迦葉の三人が釈尊に帰依して仏教教団の充実に貢献します。舎利弗(サーリブッタ)は少年時代に四つのヴェーダ聖典を学び奥義をきわめ、学芸に通じていたといわれるほど聡明であり、竹馬の友目?連とともに六師外道の一人として有名でありましたサンジャヤに師事していました。

 その教えは真理をあるがままに認識することは不可能であり、形而上学的問題は判断できないという懐疑論でありました。この教義では心の平安は得られないと考えました二人は仏弟子アッサジとの縁で釈尊の存在を知り、二百五十人の修行者をつれて竹林精舎に釈尊をたずね入門しました。竹林精舎ではこの二人は釈尊の代講をしており教団の中核となり智慧第一の舎利弗、神通第一の目連といわれております。

 初期の大乗経典は釈尊が一切皆空を説かれていますが舎利弗に対してであり、般若の智慧は慈悲として現実に働くものであり、舎利弗は般若の実践者でありました。法華経でも方便品で釈尊は舎利弗に仏の智恵は難解難入であって、仏と仏のみに諸法の実相が理解できるといわれています。残念なことに舎利弗、目連とも釈尊に先立って遷化しましたが、釈尊もその一年後にクシナーラーで入滅されました。

 釈尊の入滅後、教団をまとめ王舎城での第一回経典結集を主宰したのは摩訶迦葉です。王舎城郊外のバラモンの名家に生れ、二十歳の時親の決めた娘と結婚しますが、両親が死去しますとともに出家して修行の道に入ります。

 釈尊に弟子入りを請うた迦葉は八日目に阿羅漢の境地に達し、釈尊の着古した袈裟を譲りうけ衣食住のすべてを最も粗末に生活する頭陀行に励み、頭陀第一と称せられ、晩年は阿難を後継者として鶏足山で入定しました。

 さて、釈尊が成道され多くの弟子ができたことは故国のカピラ城にも伝わり、父の浄飯王は釈尊に帰国を促がします。成道六年頃に帰国され、ここでも出家者がありました。異母弟の難陀、実子の羅?羅、従兄の跋提、一族の阿難、提婆達多、阿那律、難提迦、そして理髪師の優波離、さらには婦人達の出家も多くなって来ました。



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